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弁財天④ 厳島の弁財天 | ペコ丸の古典芸能よもやま話

こんにちは。ペコ丸です。毎年、秋から冬にかけてお腹を壊してしまう僕ですが、2021年度はコラムの取材を兼ねてお寺巡りをしたご利益か、全く病院に行かずに過ごすことができました。

さて、2022年度は「長栄座伝承会 むすひ」の2年目が開催されます。ここで取り上げられる弁財天は、厳島の弁財天ということで、さっそく広島県廿日市市(はつかいちし)宮島町にある厳島に行ってきました。




広島県廿日市市の厳島神社。写真は干潮時。

現在、厳島神社大鳥居は、2019年(令和元年)からの大規模修繕工事中で、工事用のネットで覆われた珍しい姿を見ることができました。

2022年改修時の厳島神社大鳥居


2017年の厳島神社

厳島の弁財天は、秘仏でそのお姿を拝見することができませんでした。同じ三大弁財天の一つである竹生島の弁財天もやはり秘仏で見ることはできませんが、その分身のお姿は拝見することができます。そこで、今回は厳島の弁財天がどのような存在であるのかを、厳島の歴史とともに掘り下げてみることにしました。

厳島は約1400年以上前に始まり「神を(いつ)(まつ)る島」として、古くから島そのものが神として信仰されていました。平安時代に平清盛公が再建した頃の、厳島神社の主祭神は、「伊都岐島大明神(厳島大明神)」とされ、”女神”だったそうです。現在の、祭神に市杵嶋姫命(いちきしまひめのかみ)を主神とする、いわゆる宗像三女神(むなかたさんじょしん)があてられるようになったのは、鎌倉期以降のことです。なお、この三女神とは、市杵嶋姫命(いちきしまひめのかみ)田心姫神(たごりひめのかみ)湍津姫神(たぎつひめのかみ)で、天照大神と須佐之男命(すさのおのみこと)によって生み出された姫君たちです。なぜ、主祭神の名前が変わったのかについては定かではありませんが、伊都岐島(いつくしま)と、市杵嶋(いちきしま)の名前が似ていることや、ともに女神であったこと、市杵嶋姫命が『古事記』や『日本書紀』に登場する神様で、神様としてメジャーであったことなどが推測されます。

厳島の市杵嶋姫命(いちきしまひめのかみ)に関する伝説は、『源平盛衰記』や長門本『平家物語』の中で見ることができます。 『源平盛衰記』では、初代厳島の神主となる佐伯鞍職(さえきのくらもと)が、厳島の辺りで釣りをしていたところ、西方より紅の帆を上げた船が近づき、船中には、鋒を立て、赤幣を附けた瓶があり、そこに厳島大明神を名乗る3人の貴女が乗っていたと記しています。 長門本『平家物語』では、佐伯鞍職(さえきのくらもと)が、まるで紅の帆をつけた大船のような、赤幣を附けた瑠璃の壺に乗った十二単の貴女と出会います。この十二単の貴女が市杵嶋姫命(いちきしまひめのかみ)であり、次に弁財天と結び付けられるようになりました。

なぜ市杵嶋姫命(いちきしまひめのかみ)が弁財天と結び付けられるようになったのか、という点についてですが、市杵嶋姫命(いちきしまひめのかみ)宗像三女神(むなかたさんじょしん)の中で最も美しい神であったことや、海の神、つまり水を支配する神であったことが、インドの川の神である弁財天(1本目のコラム参照)と同一視された為のようです。いわゆる神仏習合です。厳島の弁財天は時代によって名前まで変わっているなんて、僕は驚きを隠せません。

出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)

厳島遊楽図屏風(いつくしまゆうらくずびょうぶ)」(6曲1隻/江戸時代/筆者不明)には厳島神社が描かれていますが、その一部を見てみると、鳥居の中に塔が描かれているようにみえます。江戸時代以前では、塔とは仏教寺の構造物のみを指す言葉でした。また、厳島神社宝物館には、国宝の「平家納経」や「金銅密教法具」等、仏教に関する所蔵品があることからわかるように、厳島神社は古くから神仏習合が行われていました。弁財天信仰などの聖地とされ、江戸時代には2本目のコラムにも書いた江島詣(えのしまもうで)と並び、厳島詣(いつくしまもうで)が盛んに行われるようになりました。

現在も、厳島内には、厳島神社と大聖院と大願寺がありますが、明治時代までは、神仏習合として、それぞれが重要な役割を担っていました。廿日市商工会議所が編集している「宮島本」によると、厳島神社は社家(しゃけ)を代表する棚守(たなもり)、大聖院は供僧(ぐそう)を統括する座主(ざす)、大願寺は寺社の修理・造営修理を担っていたそうです。ですが、明治時代の神仏分離令により、同一視されていた市杵嶋姫命(いちきしまひめのかみ)弁財天は分離し、弁財天のお姿を示す八臂弁才天像(はっぴべんざいてんぞう)は厳島神社から離れることになります。そして大願寺も、厳島神社から独立することとなり、厳島神社の八臂弁才天像が大願寺に移されたのです。この秘仏は弘法大師空海(774年- 835年)の作と伝えられています。

広島県廿日市市の大願寺

ここで、僕が「おや?」と思ったのは、秘仏は八臂弁才天像(はっぴべんざいてんぞう)だということです。そう、八臂弁才天(はっぴべんざいてん)は、3本目のコラムに書いた多くの武器を持つ、戦う女神様です。厳島神社の縁起となる十二単を着た美しい女神様のイメージに当てはまりません。弘法大師作といわれる弁財天像(奈良時代)がつくられたずっと後に『源平盛衰記』はできていますので、この弁財天のイメージの混同は、厳島の弁財天が時代と共に人々の中で変化し続けてきた証であるように思われます。

大願寺の八臂弁才天像は、現在は年に一度、6月17日に開帳されています。次に厳島に来る時には、是非、お姿を拝見したいものです。

秘仏なので、パンフレットなども含め、どこにも写真がありませんでした。実にミステリアスです!どうしてもお姿のヒントをと思い、お守りを購入しました。なんと、2つのお姿を拝見することができました。両方とも厳島弁財天です。(秘仏ですので、実際に祀られている弁財天のお姿ではないとのことです)。



弁財天の美しいお姿に見入ってしまう僕

厳島弁財天は、三大弁財天の中でも、様々なお名前とお姿を持つ、想像力を豊かにさせる弁財天様なのでした。

話は変わりますが、厳島神社といえば平家です。2020年に平家物語のコラムを書かせていただき、平家物語に大変興味を持ちました。2022年1月12日よりフジテレビの深夜アニメ枠『+Ultra』で『平家物語』のアニメが放送されていますが、第一話では厳島神社のことも触れられていました。優しい絵柄でありながら、平家物語を知らない人にも引き込まれるアニメで、僕もはまっています。是非、コラムと合わせて見てみてください。平家物語ではないですが、同じ時代を描いているNHK大河ドラマの『鎌倉殿の13人』も面白いですね。

ペコ丸(代筆:平山聡子)

弁財天③ 八臂弁財天について
弁財天⑤ 十五王子

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