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芝居小屋「長栄座」の歴史

滋賀県の湖北地域には、その昔、長浜の町を開いた豊臣秀吉が男子の誕生を祝って町衆に振る舞った砂金を元手に建造された曳山を町中で曳きまわしたのが始まりといわれている「長浜曳山まつり」の子ども歌舞伎や、彦根城主の大老・井伊直弼がこよなく愛し庇護した「狂言」など、日本の古典芸能を育む環境が、伝統として脈々と受け継がれています。

長浜には、江戸時代、近江商人の経済力と中世から続く近江猿楽などの芸能の土壌を背景に、豊かな町衆文化が開花したといわれています。明治時代には長浜市横町(元浜町)に「長栄座」、大正時代には長浜市南呉服町に「日比研究劇場」、高田町に「新清館」などの芝居小屋が開館しました。

「長栄座」は、明治16年(1883年)6月25日長浜料理屋組合の出資により創設されました。
木造2階建で800名を収容する大規模な劇場で、庶民の楽しみの場でした。
正面には絵看板が多くあり、入口の土間で下駄を脱ぎ番号入りの下足札を預かりました。


写真提供:片桐家

天井や舞台の引幕には町の商店の広告がたくさん入っていました。
席は升席で、四名または六名一組の仕切りがあり、床にはゴザが敷いてありました。
幕間には見物人がお茶を飲んだり、お寿司やお菓子を食べて、舞台の感想や次の演目の話に花を咲かせており、桟敷の間を「おみかんにサイダー、ラムネはいかが」と物売りが廻り、お茶子が座布団や煙草火鉢、お茶などを運んできました。
柝(拍子木)が続けうちになると、開幕の合図。三味線や太鼓の囃子も賑やかになり、柝の音に連れて幕が引かれます。


写真提供:片桐家

こけらおとしには二代目(1841年~1895年)中村雀右衛門、初代(1843年~1916年)市川右団次一座が来演し盛況だったようです。
その後経営難から、旅館経営や消防器具販売などをしていた実業家の片桐清七氏が経営者となります。

「長栄座」では、明治19年(1886年)から明治21年(1888年)に、歌舞伎芝居や玉乗り、落語、改良ばなし、すもうなどの興行のほか、衛生演説会、長浜基督教会演説会、舞の温習会おさらいかいなどが開かれたようです。

大正時代になると、浪花節なにわぶしや奇術、活動写真、芝居など幅広く興行されました。
「長栄座」は改築されて昭和5年(1930年)に「松竹館」となり、松竹映画の常設館となります。
昭和31年(1956年)には「松竹館」の経営権が自由映画社に移り、「長浜協映」に改称。
昭和33年(1958年)3月3日火災により全焼し、「長栄座」時代の記録や芝居小屋時代の諸道具類もことごとく燃えてしまいましたが、その後再建され、平成8年(1996年)に廃止されるまで営業し続けました。
そして、北近江秀吉博覧会のNHK大河ドラマ館として利用された後、取り壊されました。
現在、跡地は横町月極駐車場となっています。

<参考文献>
長浜市立図書館編(1988)『近江長浜風土記』長浜市立図書館.
長浜市史編さん委員会編(2004)『長浜市史 第4巻 市民の台頭』滋賀県長浜市役所.
中川泉三編(1988)『近江長浜町志 第3巻 本編下』臨川書店.
長浜市総務部企画課編(1980)『写真集・長浜百年』長浜市役所
吉田一郎監修(2003)『保存版 湖北の今昔』郷土出版社
『毎日新聞』1996年1月25日

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